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本能寺の変の真相
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本能寺の変や織田信長に関心がある方の意見をお待ちしております。

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兼見卿記
兼見卿記 戦国BASARA2~漆黒!本能寺の変~ドラマCDハピネット・ピクチャーズ 2007-10-24 ドラマ ユーザレビュー:光秀の変態っぷりはす ...現時点での完全決定版 ...三部作完結姉川・三方 ...Amazonアソシエイト by ウェブリブログ ...続きを見る

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2009/04/30 22:09
変の計画性
変の計画性 本能寺の変について、明智光秀の計画性が一つの問題点となる。私は、突発的な行動であり、様々な史料からも計画的犯行とは思えない。変後の光秀の行動を見ると見通しを持った動きをしているとは思えない。よく言われていることに光秀の予想よりも秀吉が早く戻ってきたため計画通りに行かなかったとされている。ならばもし、秀吉の動きが遅かったのなら何とかなっていたのだろうか。光秀は5日に安土城を戦いなく手に入れ、近江の地盤を固めずになぜ8日に京都に戻ってしまったのだろうか。吉田兼見の日記「兼見卿記」には、勅使として7日... ...続きを見る

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2009/04/27 22:39
本能寺の変と織田一族
本能寺の変と織田一族 本能寺の変で亡くなった織田一族の人々は、織田信長、嫡男信忠だけではない。まずは信長の五男(四男という説もある)織田勝長がいる。「信長公記」には津田源三郎とある人物である。彼は武田家の人質として甲斐の国におり、武田勝頼が信長との対決姿勢を示したので信長の元に天正9年11月に返されている。この勝長も兄信忠とともに二条新御所で討ち死にしている。あとは織田勘七郎、織田小藤次(信長との血縁は不明)の名が見られる。また桶狭間の合戦で今川義元の首を取った毛利新介も二条新御所にて討ち死にしている。こうして信長と... ...続きを見る

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2009/04/20 22:43
嫡男の死
嫡男の死 信長が本能寺に宿泊していた時、嫡男信忠も妙覚寺に宿泊していた。信忠は変を知り、父と合流しようと本能寺へ向かっている。このことは、まだ光秀の軍勢が妙覚寺までは及んでいないことがわかる。途中で村井貞勝父子と出会い、本能寺が焼け落ちていてもう間に合わないと言われ、さらに二条新御所は立てこもりやすいと進言している。そして二条新御所に立てこもり、最後には切腹をし、鎌田新介が介錯をして敵に渡さないように遺骸を隠している。この二条新御所への移動が運命を分けてしまっている。信忠が安土城へ戻って体制をととのえよう... ...続きを見る

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2009/04/16 21:46
言經卿記
言經卿記 前回、山科言經の日記である「言經卿記」の記述を紹介した。この日記の中にある変当日の記述を見てみよう。「卯刻(午前6時前後)前右府(信長)本能寺へ明智日向守(光秀)依謀叛押寄了、即時ニ前右府打死」とある。この日記によると戦いはすぐにかたが着いたようである。そして、信長が打ち死にしたとある。この記述を信じるならば信長は戦って死んだということとなる。また戦いが短時間で終わったことも、信長の守りが手薄だったことが窺える。 ...続きを見る

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2009/04/15 22:15
斉藤利三の関わり
斉藤利三の関わり 本能寺の変については、明智光秀が主君織田信長に対して起こした謀叛となっているが、興味深い記述が山科言經の日記「言經卿記」の記述に見られる。6月17日の「日向守内斉藤蔵助、今度謀叛随一也」とある。このことは何を意味しているものなのか。随一とは一番の中心人物であったということである。この日記を信じるならば、斉藤利三が光秀を動かして、謀叛を起こさせた考えることができるのである。このことは、何冊かの書物で指摘されている、四国を支配しいた長宗我部氏との関わりが変の引き金となったという説の理由ともなっている... ...続きを見る

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2009/04/14 23:16
もう一人の怪しい人物
前回、里村紹巴の行動が怪しいと根拠にあげた吉田兼見が書いた「兼見卿記」には、天正十年だけ、二冊の日記が存在している。なぜ二冊存在するかについては、定説では明智光秀との接触を疑われないようにと、光秀との関わりを改ざんして書き直したために二冊あるというものである。確かに二冊を比べると興味深い事実が浮かび上がる。6月2日の日記の別冊によると「悉打果、未刻大津通下向、予、粟田口邊令乗馬罷出、惟日對面、在所之儀萬端頼入之由申畢」とある。これには午後2時過ぎに兼見は、本能寺の変後に光秀と会っていることが書か... ...続きを見る

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2009/04/13 22:41
怪しい人物
この本能寺の変での行動で怪しい人物といえば1人だけいる。連歌師の里村紹巴である。彼は、5月28日の愛宕山で明智光秀の主催した連歌会に参加している。しかも、本能寺の変の時には、京都にいて織田信忠が立てこもった二条御所で誠仁親王救出に参加している。この救出に参加したことは、吉田兼見の日記「兼見卿記」に書かれている。気になるのは、この「兼見卿記」には、この頃の日記が二冊現存するのである。よく言われているのは、本能寺の変に関わったことを疑われて、日記を改ざんたというものである。そして、別冊にはこの日、里... ...続きを見る

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2009/04/12 19:27
信長の死
信長の死 6月2日未明に本能寺の変が起こっている。信長公記には、この変の様子が詳細に書かれている。なんと信長の会話したことまで載せられている。太田牛一は、この情報をどのように入手したのだろうか。実際に現場にはいなかったのは間違いなく、いかにおそば近くの女どもが生き残っていたとしてもあまりにもリアルである。まず、「如何なる者の企てぞ」と聞いている。しかも森蘭丸が答えた言葉まで載せてある。「明智が者のと見え申候」と言うとあの有名な「是非に及ばず」と信長が話している。さらに死に方についても詳しく、殿中奥深くに入... ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 4 / トラックバック 0 / コメント 0

2009/04/09 22:16
本能寺の変直前の光秀の動き
本能寺の変直前の光秀の動き 「信長公記」の記述によれば、6月1日の夜に入って逆心を決意し、重臣に打ち明けたとある。やはり、信長周辺が手薄であることがわかった段階でチャンスとばかりに決断したと考えた方が妥当である。その動きを信用するとするならば、計画性なところは感じることはできない。本能寺の変については、光秀が謀叛を起こさせるような行動を信長が取ってしまったことに起因すると思われる。前回指摘した通り、信長が大軍を従えて上京していたならば、絶対に何事も無かったに違いない。  また、いろいろな本能寺の変関係の書物を読んでいると... ...続きを見る

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2009/04/08 20:59
「信長公記」からわかる事実
「信長公記」からわかる事実 まずは、注目するのは本能寺の変以前の明智光秀の行動がある程度詳しく「信長公記」に記述されていることである・変の直前、光秀は愛宕山を訪れている。しかも出陣の前に27日から28日にかけて宿泊もしている慌ただしい中での参詣である。5月27日には、くじを2.3回引いたとある。なぜ引き直したのか。また、28日の連歌会で、光秀の「ときは今あめが下知る五月哉」という有名な発句がある。この光秀の行動をどうとらえるかである。  中国攻めへの戦勝祈願のためなのか、謀叛を決意したとみるのかでは、かなり光秀の心情が違... ...続きを見る

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2009/04/07 22:25
本能寺の変の真相とは
本能寺の変の真相とは 私は、仕事の傍ら歴史研究を趣味としています。特に織田信長に興味があり、関係する新刊が出ると買ってきては読んでいます。現在は「安土城をつくる」を定期購読して築城しています。 一番、興味があるのはやはり「本能寺の変」の真相です。様々な説が世に出まわっています。いろいろなご意見を参考にしながら私の持論を展開していきたいと思います。 ...続きを見る

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2009/04/07 21:49

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